脳科学と心理学から語る子育てのホントのところ

子育て全般について、主に脳科学と心理学の観点から、本当に大切なことをメモ代わりに書き綴っていきます。

誰も言わない特別支援教育の考え方のホントのところ

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幼児教育の機会均等化が叫ばれています。

 

そこの根っこには、平等だとか公平だとかいう考え方があるのだと思います。

 

「幼児教育を受ける機会をどの子にも等しく与えましょう」

というわけです。

 

理念レベルでは大賛成。

方法論は、、現時点では最悪と言うしかありませんが、、。

そんな話は置いといて。

 

今回は特別支援教育について書きたいと思います。

なぜなら子育てにおいて非常に大切なコンセプトを含んでいるから。

 

テーマは「平等と公平」。

 

そもそも、特別支援教育は、決して障がいを抱える人だけの話ではありません。

どうもその辺が全く浸透しない。

多くの人にとっては、まるで他人事なのです。

 

それではダメです!

 

そもそも、もともとのネーミングが悪いのかもね。

特別支援教育は、本来なら広く一般性を求めるべきなのに、名前に「特別」なんて入ってるもんだから、みんな特別扱いの他人事。

 

発達障がいだからって、特別な存在というわけじゃあるまいに。

障がいがあろうがなかろうが、みんな特別なんですよ!

 

この弱小ブログでは全く無意味かもしれませんが、一人でも目に留めていただき、「ホントのところ」が少しでも広まりますように、、。

という願いを込めて。。

 

特別支援教育はこういうこと!

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ネーミングはさておき、僕は特別支援教育の考え方こそが、真に公平な教育だと考えています。

 

別に特別支援教育に携わっているからそう言ってるわけじゃござんせん。

 

特別支援教育というと、発達障がいを抱えるお子さんを対象とした教育であるとされていますが、その目指すところの最も大切な点は、

 

「一人一人のニーズに応じた支援」

 

を行うことにあります。

 

その結果、障がいの有無にかかわらず、全ての人が十分な教育を受けられることを目指しているワケです。

 

ね、まったく特別なこと言ってないでしょ。

本来は言われなくても当たり前にするべきことでしょ。

 

ところが!

いざ現場での実践レベルになると途端に理解を得られない現状があります。

 

発達障がいのお子さんに、個別の支援をしていると、

 

「あの子だけ特別扱い」

「不公平だ」

 

と、見られちゃうのです。

 

一般の方からそうした声が上がるのは、まだ仕方なし。

ですが、専門家であるはずの先生の中にもそうした意見が上がることがいまだにあるようです。

 

先も触れたように、特別支援教育の「特別」は、特別扱いの「特別」と捉えられてしまうのです。

 

「障がいを抱える特別なお子さんに特別な支援を」

 

というモノに見られてしまうのです。

 

これ、ホントのところ、大間違い。

 

なぜこんな大間違いな理解が進んでしまったのか。

 

原因は2つ。

 

「発達障がいのみを特別扱いしてしまう」

 

「平等や公平を履き違えている」

 

この2つに尽きます。

 

発達障がいのみを特別扱いしてしまう

 

まず、発達障がいと定型発達を分けるメリットは何でしょうか。

 

明確に分けることで、発達障がいを治療や支援すべき対象として扱うことができる。

 

確かにメリットです。

 

「これだけ定型発達の子と違う特性があって、違うニーズを持っていることを分かって!」

 

ということも言えます。

 

このこと自体を否定するつもりはありません。

 

ですが、

両者を分け、発達障がいを「特別」とみなす。

定型発達とは「違う」と分断する。

 

ここから大きな間違いも生まれます。

 

障がいの有無に関わらず誰もが一人一人異なる特別なニーズを持っている。

 

この点に目が行かなくなってしまうのです。

 

「発達障がいだから」特別なニーズがあって、特別な支援が必要だ。

と、なるわけです。

 

大間違い!

 

どの子も特別なニーズを持ち、特別な支援や配慮を必要としている。

 

と、考えなくてはならないはずです。

本来は。

 

たとえば、幼稚園には、

食事が早い子も遅い子もいます。

遅い子には、無理に急かさず待つという配慮をします。

状況によっては、内容や量も調整します。

早い子には、よく噛むように声をかけるなどします。

また、手先が器用な子もいれば不器用な子もいます。

不器用な子には説明を丁寧にしたり、手本を見せたり、手を添えたりするなどの支援をします。

逆に器用な子は、見守ります。手を貸せば、成長、発達を阻害するからです。

運動が得意な子もいれば苦手な子もいます。

社会性が高い子もいれば低い子もいます。

 

どの子においてもその子だけのニーズがあり、その子に合ったその子だけの「特別な」支援や配慮が求められます。

 

そこに得手不得手も、発達障がいの有無も関係ないのです。

 

みんな特別なニーズを持っているわけです。

 

頭では分かっていても、いざ現場になると、理解されない・・。

 

発達障がいを抱え、知覚過敏を持ち、強い偏食のお子さんには、内容や量を調整して、食べさせ方も変えます。手を変え品を変え、その子に合う支援を模索します。

一方、多少の好き嫌いがある程度の子には、遅くても目を配る「見守り」が中心の配慮になりますので、一見何もしていないように見えます。

 

この差がなかなか受け入れられないのです。

 

「同じクラスでなぜあの子だけあんなに手をかけてもらうんだ?」

 

という声が上がることがあります。

 

声を掛けたり、あれこれ何か働きかける姿は支援として”分かりやすい”。

が、「見守る」というのは、「何もしてない」と同じように見られがちです。

実際、「見守る」「待つ」というのは、非常に重要で高度な支援です。

 

なぜ特別扱いと見られてしまうのか。

 

まずは、発達障がいのみを特別な扱いとしようとするからです。

現場では、定型発達のお子さんにも、一人一人の特性を踏まえ、異なる配慮をしているはずです。

障害の有無関係なく、一人一人が特別なニーズを持つ異なる存在だから。

そのことへの注目や説明をしないまま、発達障がいのみを「特別」だとしてしまうと、過ちのもとになるのです。

これでは、発達障がいを抱えるお子さんにとっても悪影響です。

 

発達障がいと定型発達を区別することについては、もっといいたいことがあるのですが、若干脱線してしまうので、またの機会に、、。

 

ともかく、教諭は、

一人一人の特性を掴み、ニーズを判断して、一人一人に異なる配慮や支援を常にしなければならない。

 

とはいえ、一人一人違うことは理解できても、子どもによって先生の労力の差があるのは、不公平だという声が上がることもあります。

 

この考えも大きな間違いです。

 

本当の「公平」とは、「一人一人違う」という点にあるからです。

 

ところが、この点も日本ではなかなか理解されない傾向にあります。

 

公平をはき違える日本

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日本では、「みんな同じ」が平等でかつ、公平だと考える傾向が強いようです。

 

平等とは

平等(びょうどう、英: equality)とは、偏りや差別が無く、みな等しいこと。

 

公平とは

公平(こうへい、英:equity)とは、すべてのものを同じように扱うこと、判断や処理などが、かたよっていないこと。

 

 確かに分かりにくいですね。

ポイントは、「判断や処理などが、かたよっていない」ところです。

 

この意味を事例をもとに考えてみます。

 

たとえば、お腹を空かせた標準体型の男子学生と、身長2メートル体重100キロ超えの男性レスラーがいるとします。

二人とも飢えて今にも倒れそう。

その二人にご飯を食べさせたいけど、手元にあるのはお茶碗2杯分のご飯のみ。

さて、あなたはどう分けますか。

 

もし、一杯ずつ同じ量をそれぞれにあげるなら、それは、平等という考え方になります。

 

でも、それは公平ではありません。

不公平なのです。

 

もともと2人は必要な量が違うからです。

公平に分けるなら、男性レスラーの方に多めに分ける必要があります。

 

特に「教育」は、平等ではなく、公平を目指す必要があります。

 

一人一人のニーズが異なる点を踏まえなくてはならないからです。

 

ですが、日本では親も教師もなかなかこの考え方になりません。

 

みんな同じように、一律に教えてほしい。

あの子にやってるなら、我が子にも同じことを。

と、考えがちです。

 

もう一つ。

平等と公平を考える際に有名なイラストがあります。

 

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左は平等。

右が公平。

 

一人一人の特性を理解せず、一律な配慮や支援をすると、左のようなことになってしまいます。

 

本当に必要なのは、

一人一人に異なる配慮をすることです。

上のイラストで言うと、一人一人に異なる木箱を設置するということです。

 

これが個別の配慮。 

特別支援教育の目指すところです。

一人一人、全員を特別扱いすることです。

 

学校側もこの考え方ができない。

一律に同じものを与えようとする。

それが平等だから。

 

でも、結果は画像の左状態です。

 

非常に不公平。

 

たとえば、幼稚園でも、この子には視覚支援、この子にはシールを使ったご褒美などしていると、子ども同士はもちろん、保護者のみならず、周りの先生からも

「この子だけって、どうなの?」

と、抵抗感を示されるかもしれません。

 

やってる先生本人も、平等と公平の違いをきちんと理解してない場合、自信が無いですから、コソコソっとやったり、「まぁまぁ、少しの間だけでも。」などとはぐらかしたりごまかしたり。

 

そんなんじゃダメです。

 

堂々と言い切ればいいのです。

 

先生は一人一人に必要な支援をしています!

って。

子どもはみんな違うんだから、先生の教え方も子どもによって違うんです!

って。

 

もし、あなたが発達障がいをもつお子さんの保護者なら、先生や周囲の保護者に堂々と言えばいいのです。

 

公平に特別扱いしてください!!

って。

 

ですが、現実はなかなか厳しい。

いろんな声を聞きます。

地道に、特別扱いを普通にやっていくしかないのであります。

 

みんな違ってみんないい。

 

この言葉のホントのところを体現できるよう、日々精進なのであります。

 

まとめ

 

というわけで、今回はなんだか愚痴っぽくなりましたが。。

 

誰もが異なるニーズを持つ特別な存在

異なる支援をすることこそ公平

 

平等は子育てに馴染みませんよ。

 

この2つ、世の中に広く浸透してほしい。

切に願っております。

 

本日も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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